リスニングの話

英語表現の授業では、教科書を捨ててしまった。あちこちから拝借してきた英文に自分で手を加えたり(部分的に手を加えているものもあれば、原形を留めないほど手を加えているものもある)、ゼロから自分で英文を書いたりしたものをベースにハンドアウトを作って、最終的にはALTにチェックしてもらったものを授業で使っている。うちのALTは有能なやつなのだけれど、原稿の段階でOKを出しておきながら、授業中に「う~ん、これでもいいけど、こっちの表現の方がいいかなぁ」なんて言い出すのはやめてほしい。

 

自分で教材を作るというのはとても面倒だ。とてもとても面倒だ。使えそうな教材がないものかと、ずいぶん時間と金を使って探したのだけれど、求めているような素材のあるものは、例外なくうちの生徒には難しすぎる。結局は、自力で教材を作るしかない。つらいのだけれど仕方ない。

 

閑話休題。今日の話はそういう話ではない。自作の教材を使っているということは、教材付属の音声CDは存在しないわけで、ALTが読み上げたり、僕が読み上げたりすることになる。生身の人間が読み上げているのを聴くということは、実は音声だけでなく、話し手から発せられる様々な情報を活用しながら理解しているということだ。読み上げる側から振り返ってみても、生徒たちが聞き取りにくいところは、ちょっとゆっくりはっきり読んでみたり、注意して聴いてもらいたいところは強調して読んだりする。うちの生徒たちは、そういうリスニングばかりやってきていることになる。

 

さて、英検などの検定や模擬試験などのリスニングは、きれいな標準的な英語ではあるのだろうけれど、音声以外の情報は何ひとつない。僕の生徒たちはそういう環境に慣れていない。授業の中ではリスニングのスキルが相当高いと目される生徒も、模擬試験のリスニングではそれほど得点できないという現象が頻発しているのは、そのあたりに原因があるのではないだろうかと密かに思っている。大学進学希望者は共通テストでも、そういうリスニングに対応しなければならないわけで、何か作戦を考えなければならないのかなと思っている。本末転倒という気がしないでもないけれど、本当にリスニングのできる生徒は、生身の人間が読み上げようが、CDの音声であろうが、できないはずはないわけで、やはり何か手を打つべきなのだろうな。もっとも、3年生になってからそういう教材をやれば何とかなるだろうと楽観的に考えている部分もある。